クリトリス全史【カナダの「性欲と体」の最先端研究とは?】

投稿日:2019年8月11日 更新日:

クイーンズ大学の臨床心理学修士課程1年目の留学生ダン・タソーンは、米マサチューセッツ州の出身です。

 

彼が高校生の時に、「ニューヨーク・タイムズ・マガジン」のチヴァースの研究を取り上げた記事を読んだそうで「性のように複雑なものを、数値化しているのがすごいと思った」と当時を振り返ります。

 

そのチヴァースは現在、彼の修士論文の指導教官になっています。高校生の時に衝撃を受け、チヴァースに導かれるままにその道に進んだダン・タソーンの目標は、女性の性的指向の流動性に関する発見をベースに、男性の場合ではどのような状態になるのかを研究することです。

 

私たちは、男性が認識している自身の性的指向は安定していると考えがちな人が多いですが、実際、正確なところはいまだわかっていないのです。

 

チヴァースとタソーンの視線計測装置を使った研究は、米国ではなくカナダでなければ助成金を得られなかったかも知れません。というのも、生殖率の向上や性感染症の撃退といった、公衆衛生的に恩恵を与えるものではなく「定量化」できる結果のデータがそこにないからです。

 

このように性に関するとても抽象的なものは、概して過小評価されてしまいます。しかし、研究者たちは、こうした地道な実験がかならずさまざまな病気の治療法の開発につながると確信しています。

 

また、こうした実験を行うことによって、基本的な性機能がどんなものであるか、もっとよく理解出来るようになります。

 

チヴァースの夢【神経外科医】

チヴァースが、スタイリッシュなオフィスで日本のほうじ茶を入れてくれました。彼女のライフワークが見て取れるような2つの像が窓枠に置いてあったのです。

 

それはなんと性器をかたどったもので、日本の愛知県小牧市で行われた子宝祈願の祭りで購入したとのことでした。

 

チヴァースに言われて、改めて陶器製の男性器のある細部に目をやると、そこにはつややかな2つの睾丸も表現されていて、その間にはとても小さな腟の外陰部が収まっていたのです。

 

セックスはいつだって、決して単純ではない。

 

チヴァースは、「まだ解明されているわけではない」と頻繁に口にします。その口調は、後悔などではなく可能性を感じさせます。それは「いまだに謎に満ちていることが、こんなに沢山あるんですよ」とでも言っているようにも感じます。彼女たちの研究には、通説と矛盾することを発見することを喜ぶ姿勢が常にあります。

 

オンタリオ州オタワで生まれたチヴァースですが、空軍の大佐で戦闘機を扱うエンジニアだった父親の影響で科学を愛し、自分自身も学ぶようになりました。彼女は幼少期からCBCラジオの科学番組を聴いて育ち、10歳時の「将来の夢」は神経外科医だったといいます。

 

「とてもオタクな子供でした」とチヴァースは自身の幼少期を振り返ります。ハイスクールの7年生のときの科学プロジェクトで彼女は、ペットのハムスター2匹を走らせる迷路を作り、違う褒美を与えることで違った状況を作り出し、2匹がゴールするまでの時間を測定しました。

 

さらに彼女は同州のゲルフ大学に進学して心理学の理学士号の取得に向けて勉強していたとき、後の研究の方向性を決定することになる体験をします。それは「人間の性」の授業で、巨大なスクリーンに性器のクローズアップが映し出されたときのことでした。

 

彼女のクラスメイトたちは、ペニスの大写しに対しては特に何の反応も見せませんでしたが、腟の外陰部が映し出されると、教室には「オエーッ!」という嫌悪の声がわき起こったのです。チヴァースは周囲を見回してみました。すると不快感をあらわにして悲鳴を上げていたのは、大半が女性だったのです。

 

そこでチヴァースは、2つの事実に気づきました。女性は自分の体に対してとても複雑な思いを抱いているということ。さらに、自分は大半の人より気楽にセックスを話題にできるということでした。

肉体と精神の刺激の違いは?

1990年代、カナダではゲイとレズビアンの権利を擁護しようとする運動が大々的に展開されましたが、ゲルフ大学はとくにオープンで、性的な多様性を容認する方向に行っていました。この大学は、世界でも最先端の進んだ学問を研究できる指折りの場所です。性的指向を扱う新たな研究に刺激を受けたチヴァースは、いつしか心理生理学を専攻するようになっていました。これは端的にいうと、肉体と精神の相互作用を研究する学問です。

 

2つ目の啓示的な出来事が起きたのは1997年でした。チヴァースは、エへレン・ラーンというオランダの研究者の話を耳にしました。

 

ラーンは「クィア(異性愛者や心と体の性が一致している人以外のさまざまな性・性的指向を指す包括的な言葉で、かつては同性愛者を侮蔑する言葉。使用に否定的な人もいる)」を自認しています。彼女は、同性愛者の女性を対象に、性的反応にかかわる変わった研究をしていました。

 

その結論を読んだチヴァースは、とても驚きました。それは、以下のようなものでした。

 

「同性愛者だと自覚している女性と、異性愛者を自覚している女性は、両方の官能的な映像に対して、よく似た性器の反応を見せた」

 

1980年代には、一部の女性の「一致率」が低いことを示していることが明らかになっています。つまり、本人が「その気になった」と回答したにも関わらず、刺激の内容と、体の反応とが異なる、というものです。

 

しかし当時、その研究が何を意味するのかを理解している研究者は少なかったのです。例えば、女性は何にでも興奮するのだろうか。腟の仕組みは男性とは異なるのだろうか。それとも、何か別の理由があるのだろうかなどと、腟に関しては疑問で溢れていました。

 

チヴァースはやがてこの謎を解くことに専念しました。博士号取得を目指すかたわらで複数の研究を進め、その後はクイーンズ大学でセージラボを設立しました。そして2010年には、性器の反応に関する132本の論文のメタ研究(複数の研究結果を統合して研究する)に取り組んで精力的に研究を重ねました。

 

男女の性的興奮・感度のギャップは?

セックスに関しては、男性と女性は類似点のほうが相違点よりもはるかに多いと言えるでしょう。しかしチヴァースが共同執筆したこのメタ研究の論文においては、男女間のある大きな違いを指摘しています。

 

このメタ研究では、男性が自己申告した性的興奮と性器の反応の「相関係数」は、0.66でした。言い換えると、男性は、勃起しているときは性的興奮も感じている可能性が高いということになります。

 

一方で、女性被験者の相関係数は0.26と、著しく低い数値が出ました。

 

メタ研究ではこれを裏付けるさらなる証拠を浮き彫りにしていました。まず腟の充血は、女性同士、男性同士、男女のセックスの映像を視聴した際に数値が上昇していました。そして、若干数値は低いながらも、ボノボのセックスを視聴した際にも上昇していました。

 

しかし、女性自身が「その気にさせられたと」言った”内容はもっと限定されたものであり、男女のカップルや女性の快感を描写した映像に傾いていたのです。つまり、女性は「心と性器の反応が一致していない」ということになります。

 

別の研究では、同性愛者の女性は男性ほどではないものの、異性愛者の女性よりも数値の一致率がやや高いことを示していました。

 

脳こそが最も強力な“性器”

この研究結果は、意外な驚きでした。一般には、男性よりも女性のほうが「自分の体をよくわかっている」と思われていたからです。ひょっとして、女性が欲望を自ら抑制したり、嘘をついたりしているのでしょうか?

 

真相は、もっと複雑だと、チヴァースは言います。

 

「性器が性的興奮を示していても、本人がその気になっていない、つまり興奮していない場合には、必ずしもその女性が嘘をついているとは言えないのです」

 

では、なぜ女性の心と性器の反応が一致しないのでしょうか?それに、なぜ男性の心はあんなにペニスの欲求と同調しているのでしょうか?

 

「そもそも、セックスに対する反応を定義するのは外性器だけではありません」と、チヴァースは指摘します。とりわけ女性にとっては、頭も強力な“性器”なのです。

 

“頭で達するオーガズム”、すなわち性器との接触を抜きにして絶頂に達することは、女性のほうがより多く起こると考えられています。想像だけで絶頂に達するのは、男性には考えられないことです。

 

セックスがしたいかどうかにかかわらず、「腟の充血と湿潤反応は、セックスに対する防御反応として進化したかもしれない」という仮説は、現在は現在では学者たちの間で広く容認されるようになっています。

 

性的欲望は、「特定の行為を欲してわき起こる」という印象があります。ところが私たちの頭と体の反応は、現に一致しなくても数値は上昇しています。

 

さらに心理学者たちは、一見するとするならば統制がとれているかのような「自己」すらも、ときに対立することもある、と主張してきました。

 

たとえば、私たちの脳の左半球と右半球は別々のことを考えているとも言われています。一部の神経学者は、分割された要素が相互に作用し合って、脳を構成していると考えているのです。「心と体」という言葉は、無数の絡み合ったシステムを単純化するためのものなのです。

 

セックスをしていても「関わっていない」

性的欲求と脳にある程度の「不協和音」があるのが普通の状態であるなら、人にとってそれはどの程度の問題なのでしょうか?たとえば同性愛者の女性は、そうではない女性よりも心と体の反応の波長が合っているのでしょうか?

 

ある調査によると、オナニーをする女性は多くの場合、しない女性より心と体の波長の一致率が高いことがわかっています。

 

彼女たちは、自分の性器が発する信号により敏感だと言えます。また、1週間に複数回オナニーをする男性の数は、女性を大きく上回っていますが、女性より一致率が高い男性は、自分の性器をより頻繁にチェックし、1日を通してその位置を調整している傾向にあると言えます。

 

チヴァースはまた、性機能障害を抱えている女性ほど、心と体の反応の一致率の数値が低いことを発見しました。体は性的興奮を感じているのに心は退屈していたり、性的妄想にふけっているのに体は何も感じなかったりといった場合、セックスをしていても「自分はあまり関わっていない」という感覚を持つようになることもあるようです。さらにチヴァースは言います。

 

「女性の心と体の間に溝のようなものは何なのか、その正体がよく分かりません」

 

彼女は、ある仮説を立てています。それは子供時代の環境が、性的な感覚に影響しているのではないか、ということです。つまり、セックスは「気持ち悪い」「間違ったことだ」「トラウマになる」という幼い頃から植え付けられた先入観が、心と体の不一致につながっているのではないか、というわけです。

 

こうしたセックスに関するネガティブなメッセージを繰り返し受け取っていると、女性は自分自身と自分の体を分離して考えるようになります。そして、自分の体を触ることで、性器と脳をつなぐ神経経路を形成する、健全なプロセスから逃避するようになりかねないと言うのです。

 

その結果、女性はさらに自分の性衝動を無視するようになるだけでなく、その意味をもまったく理解できなくなる可能性があると語ります。チヴァースの共同研究者の1人であるロリ・ブロットは、背景をこう指摘します。

 

「第一に、女性の外性器は大部分が体の中に隠れています。第二に、女性はその成長の過程で、主に大人から性器を『触っちゃダメ』『いじるんじゃありません』といった言葉を受け取ります。これらは、女性の自分の体に対する理解を阻止する原因になっているかも知れません」

 

男性でもネガティブなメッセージを受け取ることがありますが、そこには決定的な違いがあるとチヴァースは言います。

 

「男児が受け取るメッセージには、『自慰をするべきではないが、もししてしまったとしても、気持ちはわかる』と、その行為を容認する部分があります。女性の場合とは明らかに違いますね」

 

セックス中の考え事は禁物...

さらに女性に重くのしかかるのが、「魅力的な女性のあるべき姿」というものです。

 

少女たちにとっては、自分がその気になることよりも、自分の魅力を事細かにコントロールすることのほうが重要なのです。つまり、メディアが提示するセクシーさを「演じること」に注力するあまり、果たしてどの姿がセクシーなのかがわからなくなってしまっているのです。

 

ブリティッシュ・コロンビア大学の研究者であり、医師でもあるローズマリー・バッソンは、性的欲求障害と性的興奮障害の研究と治療に取り組んでいます。米「コスモポリタン」誌のアンケートによると、オーガズムに達しにくい18〜40歳の女性の実に32%が、「最中に、考えごとに気を取られ過ぎてしまう」と回答しています。

 

性的興奮は、いわば現実世界を無視するような酩酊状態と言えます。現実世界とは、「洗濯はしたかしら」「電話が鳴っているわ」「子供の歯医者の予約をしたかしら」といったようなごくありふれた日常的なできごとの連続と言えます。前出のフォウスは続けて言います。

 

「セックスをしたいと思ったものの、いざその最中に『天井の塗装が少しはがれているな』などとセックスと別のことを考えてしまうようでは、本当の意味のセックスをしていないと言えるのです」

満足できないセックスの記憶が性欲を打ち砕いてしまう

もちろん、本当の意味のセックスができないわけは、ただ単純にセックスが良くなかっただけ、快感を得られなかったという場合もあります。または、快感をもたらしてはくれてはいるけど、嫌悪する類のセックスだというケースもあります。

 

あるいは体の欲求にまかせてポルノを観ても、心は大半のポルノの醜悪さに引いてしまう場合もあるでしょう。

 

この不条理を完璧に描きだしているのが、エミリー・ウィットの『未来のセックス(未邦訳。原題:“Future Sex”)』です。そこにはこう書かれています。

 

「私がポルノを嫌悪したのは、映像が刺激的じゃなかったからとは言えません。自分がしたくない種類のセックスだったので、その気にさせられたくないからです」

 

フォウスは、メスのラットの実験で、満足できなかったセックスの記憶がみごとに性欲を打ち砕いてしまうことを発見しました。

 

セックスの最中にオピオイド受容体(オピオイド系の鎮痛薬および脳内麻薬と呼ばれる物質と結合し、それらを作用させるもの)を除外すると、ラットはもう一度セックスをしようとはしなくなったと言います。

 

ブロットはこの実験結果を「マインドフルネス」の女性の性機能障害のセラピーに応用しようとしています。そのことを思いついたのは、彼女が大学院で研究をしていたときのことです。

 

このマインドフルネスでは、日常の気がかりなことに邪魔をされることなく、体の感覚をより完全な形にしてくれると考えられています。例えば「時間がかかり過ぎかしら?」「この体位のときの私って、どんなふうに見えているの?」「セックス中は電気を消すべき?」といったような心配事です。

 

偶然にも10代で「瞑想」を学んでいたチヴァースは、この治療にその可能性を見出しました。2016年のチヴァースとブロットの共同研究では、たった4回のマインドフルネス治療で「内受容感覚への気づき」と呼ばれる測定値が上昇することが証明されたのです。

 

これは、体の内部のプロセスを感知し、心拍や消化、そしてあるいは快感を感じ取る能力だと言えます。最新のfMRI(機能的磁気共鳴画像法)画像のデータによると、マインドフルネスにこのような効果があるのは、身体意識に関わる島(とう)という脳の部位を変化させることで起きると言われています。

 

そこでブロットとバッソンは臨床実験で、マインドフルネス治療こそが、痛みの軽減に効果的であることを示しました。誘発性腟前庭痛という、体力を消耗する痛みで、約12%の女性が性交中かそれに似た行為で経験しており、多くの場合、治療は不可能だと言われています。

 

米食品医薬品局(FDA)の承認を受けた唯一の女性の性的欲求障害治療薬である「アディー」は、2015年に登場しましたが、発売後にもさまざまな批判と売上不振に苦しめられています。そこで登場した薬を使用しないこのマインドフルネス治療は、ちょうどいいタイミングで、女性の救世主となったのです。

 

チヴァースらが取り組む研究主導型の“性の革命”は、政権交代など、政治の風向き次第では、ここまま世界中へ広がりを見せることになるかも知れません。チヴァースはこれらの学説を通じて、科学者が女性の性を研究していることを世間が認知すれば、それがあるメッセージを発信することになると期待しています。それはまさに世界的な「性の革命」になる予感がします。

 

最後にチヴァースはこう語ります。

「素晴らしいセックスを楽しめるようになるとか、より満たされるオーガズムを得る方法は500通りあるとか、そういった次元ではありません。もっと『あなたの性は大切な問題なんだ』という認識を持つことが大切なのです。」

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