公開日:2020/04/10
最終更新日:2020/04/13

ちつの正しい漢字表記は「膣」ではなく「腟」【東京大学名誉教授が言及】

投稿日:2020年4月10日 更新日:

二つの漢字が使われています

ちつは女性にとって非常に重要な部位です。
しかしそれの漢字表記には「腟」と「膣」の二種類があり、医者の間でも統一されていません。
どちらも体の部位や状態などを現す部首の「にくづき」がついているものの、右半分のつくりは「室」と「窒」で異なります。
では正式な漢字はどちらなのでしょうか。
結論を示せば、右半分が室の「腟」が正式です。
医史学の権威であり、東京大学の名誉教授や日本医私学会理事長などを務められた故小川鼎三氏も著作『医学用語の起り』の中で「日本の医学用語としては【膣】ではなくて【腟】が正式である」と言及しています。

ヴァギナの意味で「腟」がはじめて使用されたのは1826年、江戸時代後期のことです。
1826年のおよそ50年前にあたる1774年には杉田玄白らがオランダの医学書を訳した『解体新書』が刊行され、日本の医学は大きく発展しました。
しかし『解体新書』は日本人がはじめて欧米の書物を翻訳した例であり、その作業は手探り状態であったこともあってか誤訳も少なくありませんでした。
また、実は日本へ輸入された『ターヘル・アナトミア』自体がドイツ語の原書からの翻訳であり、つまり『解体新書』は翻訳の翻訳であったことも誤訳が生じた原因だったのです。
そのような『解体新書』の翻訳元である『ターヘル・アナトミア』を再度翻訳し誤訳を改めようとしたのが、杉田玄白や前野良沢の弟子にあたる大槻玄沢がまとめた『重訂解体新書』です。
この頃は初の翻訳から半世紀余りが経過し、オランダ語の研究も進んでいました。
しかし刊行までは苦労が多く、1798年に原稿こそできあがったものの刊行は1826年まで待たなくてはなりませんでした。
その『重訂解体新書』ではじめてヴァギナの意味で「腟」が使用されました。
「腟」は大槻がつくったものではなく、それ以前から中国で使われていた漢字なのです。
しかし中国においてヴァギナを指す言葉は「陰道」や「阴道」とされており、「腟」はあくまで「肉が生ずる」という意味の漢字でしかありませんでした。
大槻はそのことを知っていたにもかかわらず、なぜあえて「腟」を使用したのでしょうか。

これは当時の翻訳環境に起因します。
翻訳の参考となるものが基本的にない以上、原文のオランダ語を一つひとつ読み解き、意味を考えていかなくてはなりません。
『解体新書』当時は全く資料がなく、ほぼパズルを解くかのような翻訳作業でした。

有名なエピソードとして「フルヘンヘッド」があります。
『ターヘル・アナトミア』には「鼻は顔の中央にてフルヘンヘッドしている」という記述があり、杉田玄白はどうしてもこれを訳せずにいました。
ほかの用例を調べたところ「庭を掃けば塵埃がフルヘンヘッドする」とあり、実際にそれを行ってみたところ「うずたかい」という意味だとわかりました。
このエピソードは当時の回想が綴られている杉田玄白の『蘭学事始』に記されています。
実は原書に「フルヘンヘッド」の記述はないのですが、ともかくも当時の翻訳作業はこのエピソードのように手探り状態でした。
『解体新書』の刊行から半世紀が経ち、いくらかは環境が良くなったとはいえど、現代と比べたら『重訂解体新書』編纂当時はまだまだ情報が足りていません。
大槻玄沢も連想を駆使しつつ翻訳を進めていったことは容易に想像できます。

『ターヘル・アナトミア』ではヴァギナの項に「シケイデ」とあり、これを大槻玄沢は「空間、男性器を入れる空間、さらに赤子や生理などが通る道」であると解釈しました。
加えて大槻玄沢は「新しい字を見繕って訳する」とし、「腟」の字をあてがうことを記しています。
この際に「肉生ズルナリノ腟ニハ非ズ」とも書いているため、大槻玄沢が「腟」の中国語意味を知りつつもあえて使用したことが明確にわかります。
つまり大槻玄沢は体を表す「月(にくづき)」とシテイデの訳に該当する「室」が合わさっていることを理由に「腟」をヴァギナとして使い始めたということです。

「膣」も多く使われている

このような経緯があり「腟」はヴァギナを表す漢字になりました。
しかしながら現状は大槻が言及していない「膣」も同様に使用されています。
「腟」も「膣」も常用漢字外であり、一般生活の中で使うことはあまりありません。
しかしパソコンで「ちつ」と入力し変換すると多くの場合において「膣」が先に表示され、「腟」は候補にも挙がらないことさえあります。
また、常用漢字ほどではないが使用頻度が多い漢字がまとめられた文化庁の「表外漢字字体表」でも「膣」のほうが収録されています。

一方、医学の現場では「腟」が使われることのほうが多いです。
日本医学会が発行する『医学用語辞典英和』でも、一般社会では「膣」が多く使用されているとしたうえで「腟」を収録しています。
ではなぜ、ヴァギナを表す漢字として「膣」が現れてしまったのでしょう。
そのことについて、益田赤十字病院の第一産婦人科部長の水田正能氏は以下のように分析しています。

どうして“膣”が誤用されているのか.一般に,“腟”は“膣”の略字であり,“膣”の方が古い 字体で正式だと誤解されているようである.昭和22年初版の小川政修氏の『西洋醫學史』で探 してみると,「妊娠診斷,受胎,陣痛促進(坐藥),乳分泌増加(膏藥貼用),通經(煎劑の腟内注入)」 と,“醫學”“斷”“經”などの旧字体の中でも,“腟”が正確に使用されている.さらに断定的な証拠 として,大槻文彦氏は『大言海』に,“腟”と“膣”は異義の字であると書いているが,「膣ハ篇海 「音窒,肉生也」ト.今ハ腟ト同ジク用ヰル」と続く.この『篇海』は,前出の『玉篇』より後 代の著であるので,強いて言えば「腟」の方が旧字体なのである. また,1851年の中国で出版された『全体新論』には,女性生殖器の記載では“陰道”と書き 表されているという.ところが,1915年中華民国発行の『辞源』に,「膣,女子陰道,上通子宮, 一名生殖口」とある.この点から,中国が“腟”ではないが,同じ使い方をする後世の字である エッセイ N―644 日産婦誌59巻10号 “膣”を使うのは,『重訂解体新書』の影響であろうと小川鼎三博士は書いている.現在の多くの 産婦人科医の,漢字は中国が本場という先入観が,“膣”を本家扱いして誤用しているのである.

ヴァギナの由来であるラテン語のvāgīnaは剣の鞘や植物の子房など、何かを入れる形状のものを指す言葉です。
その観点から見れば、空間だからとして「腟」をヴァギナに当てはめた大槻玄沢は極めて正しかったといえるでしょう。
現代日本においては「腟」と「膣」どちらも正しいと見なされていますが、ぜひ今後は「腟」を優先的に使用してみてください。

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